『全焼のいけにえ』
【レビ1:3 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、彼が【主】の前に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。1:4 その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。】①罪のための全焼のいけにえは、完全に焼き尽くされなければなりませんでした。本来礼拝とは、全て捧げ尽くすものなのです。牛に手を置くとは、「自分の罪」を牛に託して、「代わりに死んでもらう」という意味です。あなたの礼拝は、すべてを捧げ尽くす礼拝でしょうか。自我を完全に捧げ尽くすならば、良い香り放つようになります。私たちの礼拝には、そのような精神が必要なのです。
『キリストの苦しみと私たちの救い』
【マタイ 27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。】①イエス様は、天の神様と完全な交わりを持っておらました。しかし「この時だけ」は、罪人と同じ立場に立ち、神様から見捨てられ、「神との完全な断絶」を体験されたのです。これは非常に恐ろしいことです。この絶望は、普通の人間には、到底耐えることはできないでしょう。イエス様は「このような苦しみ」を通られて、「私たちの罪の代価」を支払われたのです。私たちはそのことを「感謝」するのです。